『パレードの時代』<メトロポリスプロジェクト>

 作・演出のじんのひろあきが、演劇の短編を300本作ろうと始めたのが、このメトロポリスプロジェクトだ。
2002年より江古田のストアハウス(全70席ほど)でスタートし、2年間で60本を上演してきた。
従って、300本目は2012年に完結の予定とか。

 1本の短編は約20分ほどで、総22人芝居。今回私が観たのは第63話から第68話の6本。
別に以前の公演を観ていなくても、話自体が1話完結なので分かり易い。

 じんのの試みは一つ一つの短編を300話つなぎ合わせると、そこに大きな「街」が出現するというものだ。
一人の役者は一つのキャラクターを演じ、作品ごとに時と場所と相手を変える。

 つまり観客が一本、また一本と観続けていくことで、情報が蓄積されていく物語なのだ。

  第63話「のりのお見合い」

 質屋の跡取りだが、本人は落語家を目指している、ほかほか亭のり勉と称する男と、
オールドミスのお知り合い‥‥というか、仲人が「じゃ、あとは若いお二人で‥」と若くもない二人に言ったあとの、
二人だけで長いすに座ってぎこちなく会話がすすんでいくひと時である。

 のり勉をやった中嶋ベンさんは、丸坊主、まるめがねで見た目も語り口調も落語家って感じだったし、
遠坂百合子さんも、充分いき遅れのどっかの会社でずーっと経理やってる女感が、モワーっと出てはいましたが、
何なんだろう‥‥?笑いがないのよ、笑いが!!
普通あるだろう、こういう状況なら笑いが。
別にねらった笑いじゃなくて、思わず自然に笑ってしまうもんなのに。
 設定が設定だけに、こちらも、さぁ、どう笑わしてくれるんだ‥‥と期待してしまったのだ。
 しかし男は、自分は何百年も続く質屋の跡取りだから、家の為に嫁を早くもらえと言われてここに来たけど、
それはあなたにとって失礼ですね。だとか、でも自分は落語家になりたい。だとか、相手に気を使いつつ淡々と話すし、
女は女で(あっ、この女性は劇中は図書館で働いていました。)落語ってステキ、昼は図書館で静かに過ごし、
夜は家であなたの落語を聞くのも夢がある‥‥なんてさして夢があるとも思えないことを淡々というし、
淡々大会か!と思ってしまうのだ。

  第64話「百年の孤独」

 坪井一広演ずる老婆が、自分の姉(百歳を越える)の葬儀へ向かう為、孫娘と家でその準備をしている一時。
この話も淡々と、そして静かに、老婆が自分の姉を孫に語る。老婆に押し寄せる寂しさと孤独が伝わってくる。
名古屋弁の老婆にすることで、一段とリアリティーが増している。

 第65話「作品」

 女流漫画家が、自分のマンションから着のみ着のまま飛び出して、友達のホームレスのもとに相談にやってくる。
彼女は離婚したにもかかわらず、自分のマンションは夫にくれてやり、自分が出てきてしまったというのだ。
そして、友達のホームレスの住んでいる様なダンボールハウスで暮らしていきたいから、そのノウハウを教えて欲しいと
願い出る。それに対し元商社マンのホームレスは、こんな暮らしは君には無理だ。ちゃんとしたアパートでも借りた方が良い
とやけに常識的でおかしい。女が金を持っていないと言うと、何百万もの貯金があるというホームレスは、
女にお金を貸してあげると言う。
 両人物のキャラクターがなかなかおもしろいにも関わらず、役者の芝居がワク内でやけにちんまりしていて、おもしろくない。
演技に破天荒さが欲しかった。

 第66話「新東京物語」

 第64話に出てきた孫娘役の梅田幸子がこの話しでも同じ人物で登場。場所はとある温泉旅館の一室。
彼女は、彼の兄と、その妻となるべき女性、つまり義理の姉との三人で温泉に遊びにきたのだ。兄は今、風呂に行っていて
女二人の会話である。
風呂上がり。浴衣にビール。でも義理の妹の言葉の「です・ます」調はなかなかくだけない‥‥。
台詞の上では、兄をとられる嫉妬心だとかは出てくるのだが、もっと芝居で女二人の微妙な心理の綾を見せて欲しかった。

 第67話「驟雨奔雷」

 第66話の続きである。妹は、既に別室に引まとっている。
新婚二人の就寝前の会話。新婚旅行はどこへ行こうか、などと話している最中、突然の激しい雨と雷が。
そんな時、又、露天風呂へ行くと言い出す夫。雷が怖いから側にいてくれという妻。そして再び激しい雷が‥‥。
近くに落ちたらしい。幸せの絶頂にいるからこそ感じる不安。激しい雨と雷の中で新妻が感じる漠たる不安。
そんな情緒が伝わってきた一場面。64話で老婆を演じた坪田一広が、そんな女の不安をなかなか理解できない 夫役をこなしている。

 第68話「新作落語」

 第63話の駆け出しの落語家が、親友に新作落語を聞いてもらう。正直なことを言ってくれという落語家に、
親友はハッキリ言っておもしろくないし、オチもないと言う。煮詰まってしまった落語家に親友が助け船を出す。
お前が子供の頃、質屋の倉に忍び込んで、じいさんが大事にしていた武蔵作といわれているダルマの掛け軸に、目の落書きをして、
それをじいさんが死の間際に見たいといった時のことを落語にしてはどうかと‥‥。
この場面、どういう展開になるかと思っていたら‥‥というのは今までの話と違って唯一コメディタッチなので、そういう意味で
期待していたのだが、話自体に大したオチがつかず、オチがないから何とかしようという流れなのに、シャレにならなかった。

 
  作・構成・演出のじんのひろあきが10年がかりでやろうとしている、このメトロポリスプロジェクトに対して、
一回の公演を見ただけで、評価をするのは控えるべきだろう。

 彼は「今」使っている言葉、「今」感じていること、「今」おもしろいこと等々、「今」を常にテーマに300の物語を作っていきたいと言っている。

 確かに今回、私が見た舞台は、どれもどこにでもありそうな街の、そこに暮らす日本人の「今」であった。
しかし、私には物足りなく感じるのだ。何故か? 
作者があまりにも「今」という概念にこだわるあまり、人間の様相を客観視し過ぎているように思えるのだ。
映像で言えば、引きの絵ばっかり。寄りの絵だって、顔のアップもイメージショットも欲しいでしょ、そりゃあ。
役者の演技にしても今回はたまたまかもしれないが、皆、大体トーンが一定している。淡々とリアリティーを出すことに
神経が言っているというか‥‥。要は、台本にしても演技にしても、どう踏み込んでいくかが大事ではないかと考える。
「今」を平均値でとらえるのでなく、今から何をとり出し、何を切り捨てるか?
「今」代表のこの人物を、どう演じたら人間のおもしろさが表現できるか。そういうことが大事なんじゃないかと私は思う。

 テーマには気をつけた方がいい。テーマは時として芸術をつまらなくする。テーマは表現を陳腐なものにする。

 10年かけて江古田ストアハウスをホームグラウンドに300の物語をつくる。大変なことだと思う。
マンネリとも戦いながら、是非そこに実りある街を作っていってほしいと思う。

 芝居が終わって、このプロジェクトの固定メンバー、坪井一広さんと塚本拓弥さんに話を聞いた。
 二人共、このメトロポリスプロジェクトを始めて、最近コアな固定客が増えて来たと声をはずませる。
もう一回バックナンバーいくつのナントカという作品を観たいとか、そういう声を聞くことが嬉しいとのこと。
 今後は、江古田ストアハウスでの公演を主軸に、他の劇場での公演も視野に入れているそうである。

 この日作家のじんの氏には会えなかったが、私とじんの氏は10年以上前、映画「12人の優しい日本人」に
共に携った仲だし、これからも頑張って欲しい。

<メトロポリスプロジェクト 『パレードの時代』>
公演日時:2003年9月11日 江古田ストアハウスにて
作・構成・演出:じんのひろあき  

 

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