『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』 <劇団、本谷有希子>

「劇団、本谷有希子」。座長であろう人が、自分の名前を劇団名にしていることから、強烈な自意識を感じました。それだけで、自意識過剰気味の自己満足的な芝居を想像してしまい、ちょっとこの芝居はパスだなと敬遠してしまう人もいるかも知れないでしょうし、私も現にそう感じたのですが、パンフレットを見てみて、いや、チョイ待ち、と考えなおしたのでした。

 まず目に飛び込んでくる題名「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」。これ、キャッチコピーとしてもかなりインパクトがあります。
いきなり、俺のこと言われてるのかと思うほどグッと来るものがあります。何せ“腑抜けども”です。かなり挑発的です。
そして“悲しみの愛を見せろ”です。命令形です、フレーズを声に出して読んでみると、まるでロックバンドの歌詞の様でもあり、こちらとしても内心で思わず、イエーイ!とこぶしを振り上げるのもやぶさかではありません。

  そして、パンフレットの表・裏に描かれた山本直樹氏の絵です。喪服の女性とセーラー服の女の子から非常に物語性が伝わって来ます。
 また、二つ折りのパンフを開いてみると、文字を載せているバックの写真ー日本のどこかの山里の写真がまっ赤なのにもハッとさせられます。さらにその文章はまことに簡潔にして、興味抱かせる内容なのでした。
 パンフレット一つでこれだけ引きつけられてしまった「劇団、本谷有希子」。是非とも観てみたいと思ったのでした。

 果たして、芝居を観る前から「劇団、本谷有希子」に抱いた“何かイイ感じ”は実際に観ても、決して裏切られることなく大変にオモシロく満足のいくものでした。
 “狂いそうな夏の暑さに閉じ込められた山間の集落、赤戸前村。この地における和合家の交通事故で死んだ両親の葬式から舞台は始まります。
 東京から六年の間、音信不通だった長女が和合家へ帰って来ます。長女の澄伽は女優ですが、今までまともな仕事もなく、亡くなった 両親からの仕送りで生活して来ました。だから、葬式で里帰りした澄伽の最も大事な用事は、実家の兄宍道に対して仕送りの継続を頼むことだったのです。
澄伽は自分の才能の無さを棚に上げ、気位だけは大女優並みというタイプなのですが、ちなみに澄伽の役は作・演出の本谷氏とかぶるところが多いらしく、4年前この台本を書いた19歳の頃、彼女は最高に自意識が過剰で女優になる夢をあきらめずにいた自分に対してもう一人の客観的な自分が「あきらめろ!」と分からせてやりたくて書いたのが、この「腑抜けども〜」のお芝居らしいのです。

 劇中、長女の澄伽は実家では暴君の様にふるまいます。兄・宍道に対して、兄嫁・待子に対して、そして特に妹・清深に対するイジメは徹底しています。そのイジメの原因とは過去の清深の“ある行動”に澄伽がひどく傷ついたことにあるのですが、それ以来澄伽は清深を憎み始めるのです。おまけに、兄の宍道も当時澄伽が落ち込み自殺さわぎをおこした時に、澄伽と肉体関係を持ってしまい、以後澄伽以外の女性を愛さないという誓いを立てさせられてしまっているのでした。
 澄伽が和合家へ帰ってから続く、清深へのイジメと宍道の妻・待子に隠れての宍道と澄伽による兄妹の秘められた行為。

 かなりディープな内容にも拘らず、舞台の印象は“明るく楽しく”といっては変ですが、ある種の軽快な感じ、と爽快感さえともなうものだったというのは、どこにその理由があったのか。それはやはり作者の筆力と俳優陣の好演があったからでしょう。芝居はテンポよく進行し、パンフにあるところの文句「いい感じのエンディングで魂を浄化する」の如く幕となります。

 シアターガイドにおいて若干24歳の作者はこう言っています。
「理想となる舞台は上演中に一瞬でも、ここが劇場、この人達が役者だということを忘れて見入ってしまう時間があるもの、雑念を捨てて話にのめり込めるような舞台の内側で完結しない世界を目指します」
 まことによくわかってらっしゃる。
 今後も注目していきたいです。

2004年11月14日(日)観劇

<腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」
公演日時:2004年11月10日〜14日 青山円形劇場にて
作・演出:本谷有希子

○次回予告○
第9回公演「頑張るよ(仮)」
2005年4月8日〜17日 新宿シアターモリエール

小説「江利子と絶対」講談社/1600円

 

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